スイミング・プール 無修正版
2006年6月1日 映画人気ミステリー作家サラが、出版社社長に誘われて、南仏の別荘に出向く。そこには社長は来ず、娘のジュリーがやってきた。奔放な性格の彼女は、毎夜ちがう男を家に連れ込み、サラに見せつけるかのように刺激的な夜を過ごしていた。サラはそんな彼女に嫌悪を抱きながらも、目が離せず、次第に影響を受けていく。
私にとってのフランソワ・オゾンは凄く似ている人であったりする。
心の底で考えているようなコンプレックスのような、そうでないような・・・そんな複雑で決して言葉で表せないようなモノを、何故か彼の映画の中では必ず見出すことが出来る。
スイミングプールもそう。ジェリーに対するサラの嫉妬や優越感とか。
その、サラの矛盾しているような感情。
どこか身に覚えのあるものだ。
そして、スイミングプールも去ることながら、私がもっとフランソワ・オゾンを感じたのは、ぼくを葬るの中だった。
主人公ロマンが感じる死への恐怖。
一度強がって現状を壊してしまうものの、やはり恐ろしくなって戻ろうとするものの、一度壊してしまったものは決して戻ることは無い。
ぼくを葬るでのロマンの死の迎え方というのは、本当に美しくて羨ましかった。
たくさんの人に見守られる事とか、長く生き続けることとか、そういうことじゃなくて、
悔いが残ろうとなんだろうと最終的には現実を受け止めて、
自分の心の整理をし、生きた事に(無理やりでも)満足してそれで迎える、自分自身の死というのは、とても素敵に見えた。
ビッグフィッシュもそうだけれど、本当に素敵な「死」を描いている映画には死ぬ人の生きることに対しての執着心があまりない。
セカチューだとか、そういうものに見られる「死」を只恐ろしいもの、迎えたくないもの、現実として受け止めたくないもの、としてではなく、
一時はそういう感情もあれど、それを受け止めて死ぬことを躊躇わないこと。
それはもしかしたら、本当に良い終わり方なのかもしれない。
でも決して諦めではないことが重要。投げ出している「死」もまた、醜いから。
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